

最後の「お帰り!待ってた」(54-7)
父は何度も病院のお世話になったけれど、それはケガや病気を治して、また家での暮らしに戻るために必要だったから。それができないのなら病院にいる意味がない。 家で私が看取る。そう決めました。 そして、そのための準備をしなければと思った矢先、父が再度、緊急搬送されます。父の血中酸素...


最後の「お帰り!待ってた」(54-6)
父の最期を託されました。一つ確かだったことは、父にこれ以上、「頑張って」とは言えない。ただそれだけでした。 自分が選択するだろう道は見えてはいたけれど、即座にそれを実行することはためらわれました。その時に相談したのが、妹の友人のお母さんで長く看護師をされていたAさんです。A...


最後の「お帰り!待ってた」(54-5)
2015年暮れ、在宅介護が厳しい状況になってきました。それならば、次の段階を考えよう。父が80歳を超えたあたりから、体力の低下を感じていたし、そろそろ施設入居のことも考えておこうと思っていました。でも、それは父の体力にあった環境で最晩年を平穏に暮らすためです。...


最後の「お帰り!待ってた」(54-4)
1994年に脳塞栓で倒れた直後の父は人格さえ無くしたようにみえました。しかし、その後長い時間をかけて、おそらくほとんどのことを認知できるようになっていたと思います。意志も明確でしたが、失語症によりそれを言葉で伝えられない、言葉に代わる手段もありませんでした。その父が、父らし...


最後の「お帰り!待ってた」(54-3)
病気になる前、父は自分にも人にも厳しかったようです。会社の方は口を揃えて、「ビシビシやられました」「よくケンカしました」とおっしゃいます。プライド高く、人並みでない負けず嫌いの父にとって、病気になってからの自分の状態は受け入れ難かったに違いありません。生きていることの方がよ...


最後の「お帰り!待ってた」(54-2)
初めて受診で私が父の病歴を伝え、今の状況を説明するのをS先生はだまって聞いておられました。そして、話し終えると、S先生は静かにおっしゃいました。ここが父の寿命なのだと…。私は今までと同じように治す気満々でしたので、驚いて言葉をなくし、混乱してただ涙が止まらなかった。ここを寿...


最後の「お帰り!待ってた」(54-1)
2020年東京オリンピック開催が決まったのが2013年の9月。あと7年、そこまでは父はいけるなと思っていたのです。それが3年後、みおくることになりました。 2015年の暮れ近く、父はすとんと物を食べなくなりました。その1年前くらいから、むせやすくなって、嚥下機能が下がってき...


母の服 (52)
母は料理に限らず、洋裁も和裁もやりました。 私は並外れて大きな子供でした。小学校5年生の時、転校した先の学校の始業式で、列の後ろに立っていたら、新しい先生だと間違われました。担任と並んで写る修学旅行の写真はどう見ても副担任。小学校は私服でしたし、実年齢と体の大きさに一番ギャ...


中華料理 (51)
台湾に駐在していた時、母は現地の先生に中華料理を習っていました。それ以降、わが家のご馳走はお寿司や鰻ではなくて、中華料理でした。特に思い出すのが、白身魚のあんかけ。白身魚を1匹丸ごと41センチの中華鍋で油をかけながら、骨まで食べられるくらい時間をかけて揚げる。それに野菜たっ...


中華鍋 (50)
45年前、台湾から持ち帰って、今も現役のものに直径41センチの中華鍋があります。しまっておく場所もない。大は小を兼ねるわけだし、一人分でも使ってやろうじゃないか、と毎日出番があります。テフロンだ、フッ素加工だといったソフトタッチではなく、鉄なべをカネのフライパン返しで威勢よ...





















