

紫の花に寄せて(17)
母は頑張り屋の父が好きで、勉強家の父を尊敬していました。 父は脳に大きなダメージを受けましたが、運よくその気質は残り、不自由な体になっても、一徹な頑張り屋でした。 母は「病気になる前も後も、お父さんは私の自慢!」と嬉しそうに言いました。...


途切れたページ(16)
「二月九日 ごはんを食べたりコーヒーを飲むたびにお母さんも早く帰ってくるといいねと言います。」 日記は途切れました。 この頃のことは今まで、あまり思い出そうとしたことがなかったと気付きました。 無意識に避けていたのだと思います。...


日記スタート(14)
このブログの名前の由来は、父が毎日書いた日記です。 1998年9月18日から始まっています。 父自身が文章を書くのではなく、書いたものを父が書き写すのです。 いつか父が自分の言いたいことを書けるようにと、毎日頑張りました。...


計算ドリル(13)
父にとって、言葉でのコミュニケーションはやはり難しいのでした。 では、字はどうだろう、と文字盤などあれこれ試しました。 けれど、自分の意思を伝える手段としてはどうもうまく使えない。 けれど、字は左手で書ける。 数はどうだろう、と子供用のドリルを買ってきました。...


オリジナルの手すり(11)
父の退院を前に行った室内のリフォームは、車いすで移動しやすくするためのものでした。 一つはドアを引き戸に変え、車いすが通れるように間口を広げること。トイレ、寝室、台所、洗面所の4か所です。 もう一つは、トイレなど、車椅子から立ち上がるところに手すりをつけることでした。...


父の再生。光の先にあるもの(10-4)
入院中、父は病気で死ぬのではなく、憤死するに違いないと思うほど、ずっと怒りまくっていました。何もかもできなくなってしまった絶望と混乱の中にいたのだと思います。それが、自宅に戻り「できた!!」という実感を積み重ねるうちに、かつての日常とは違う、新しい日常を受け入れ始めたのでは...


父の再生。光の先にあるもの(10-3)
わが家は高台の住宅地にあり、平らなところはほとんどありません。 初めて父に外を歩かせるとき、母はどんな気持ちだったんだろう。 父はどうだったのだろう、と思うのです。 だめだ!とわかっても、病院のように回りに人がいるわけではなく、途中にベンチがあるわけでもない。立往生したら、...


父の再生。光の先にあるもの(10-2)
家の廊下がリハビリルーム。 その訓練内容は怖がって大声をあげる父を、母が無理強情歩かせるのというものでした。びっくりするほど無理強情で、父の嫌がりようもこれまた必死で、あまりの力任せぶりに笑ってしまうほど。 この独自訓練を二人でやってたんと思うと、まさに「恐るべし…」という...


父の再生。光の先にあるもの(10-1)
退院から1年余り経った頃でした。 週末のある日、父が麻痺側の右足に、つま先から足の付け根までの長い装具を付け、小さな脚立のような杖をついて、家の廊下を歩いていました。 「嘘でしょ…」狐につままれました。 退院したT病院では、「歩く見込みはない」と診断され、退院後、歩行訓練を...


大好きなドライブ(9)
ドライブは暑くても、寒くても、台風でなければ行きたいのです。 マグロと一緒で、止まらず走ってさえいれば上機嫌。 居眠りをすることもありませんでした。 毎日お風呂に入れることも、車椅子を車に積んでドライブに行くことも楽ではありません。...